浴槽用浮き輪による溺水

「浴槽用浮き輪による溺水」イメージ

はじめに
浴槽用浮き輪により子どもが溺水するという事故について、これまでの経過を見ると危険の要因が技術的に明確化されているとは見えず、実際に傷害事故は再発しています。われわれは子どもが浮き輪に乗って水面に浮かんでいる状態がどういう条件で安定か、どういう条件になると危険な事態になるかについて検討しました。先ず「転覆現象」について考え方をまとめ、次に浮き輪にダミー人形を乗せて浴槽に浮かべる実験により不安定事象を観察し、安定から転覆に至る過程について解析を行いました。
1. できごと
(出典:「浴槽用浮き輪による溺水」 Injury Alert No.4 日本小児科学会誌 2008.5)
発生日時  2006年11月21日 19時頃
発生場所  事故当事者の自宅の浴槽内
事故の概要 浴槽内でパンツ型の浮き輪に座らされて浮かんでいた生後9ヶ月の子どもが、洗髪中だった母親が気づかない3~4分のうちに浮き輪からはずれ、うつ伏せで浴槽に浮かび意識混濁し一時呼吸停止した。
 子どもは病院へ搬送され、医療処置の後に回復し退院した。
2. その後の経緯
上記事例以外にもいくつかの死亡事故があり、国民生活センターで詳細調査が行なわれ、その結果として2007年11月に同センターよりインタネットにより詳細な報告がなされました。(http://www.kokusen.go.jp/kiken/pdf/280dl_kiken.pdf
この報告では、浴槽用浮き輪を使うことの危険性を指摘し、その上で「目を離さないで」という呼びかけを行い、また関連業界に対して安全対策に関する要望がなされています。
 しかしながらその後も浴槽で浮き輪による傷害事故が発生しており、また同種の浮き輪が「浴槽では使わないで下さい」と表示した上で今も販売されています(ネットを“足を入れるタイプの浮き輪”で検索した結果、2018年5月5日)。
3. 研究の取り組み
3.1 リスクアセスメント
a) 危険源
・ 子どもの重心位置が浮き輪の浮力の中心(浮心)より高い位置にあり、また重心は子どもの活発な動きにより移動しやすく、浮力とのバランスがくずれて転覆する危険がある。
・ 一度転覆すると頭部が水没する
b) リスクの大きさ
・浸水時間に大きく依存する(4~6分で不可逆な脳ダメージ)
・最悪は溺死
3.2 リスクの低減策—研究の目的
・ 転覆現象を解析した上で最終的には転覆の危険を最少にするような提案をすることを目的とします。(転覆以外にも浮き輪の損傷などリスクはいろいろありますが、この研究では転覆現象を中心に検討しました。)
3.3 考え方
子どもと浮き輪からなる浮上体は、全体の重力と水面下にある浮き輪に作用する浮力とがバランスして水上で安定していますが、浮力の中心(浮心)に対して重力の中心(重心)が上にあって本来不安定な系です。この浮上体が傾くと、浮き輪の水没している部分の形が変わって浮心の位置が、傾いた方向に移動します。重心の移動より先に浮心が移動すれば傾きに対して反対方向の作用(復元力)が発生し、浮上体は安定します。これは海に浮かぶ船の安定性の原理と同じです。子どもは浮き輪に乗ってゆらゆらゆれることに興味を覚え、やがて自分で動きを更に加えようとすることは容易に想像できます。船と同じように、傾きがある程度以上になると浮心の移動がある限界に達し、もはや復元力は期待できなくなり転覆に至ることが考えられます。安定でいられる条件は何か、どういう状態になると転覆が始まるか、転覆しない方法はあるかどうか、などを確かめることが研究の中心になります。
3.4 実験
3.4.1 子どもと浮き輪の関係
地上で子どもを浮き輪に乗せてその関係を観察しました。浮き輪には下側に二つの穴のある「パンツ型」の支えがあり、子どもは両足をそれぞれの穴に入れて浮き輪と一体化します。子どもはじっとしていないので子どもと浮き輪の位置関係は変わります。子どもが腕を突っ張れば子どもの重心は浮き輪より上に行きます。体を前後左右に揺らせば浮き輪に対して重心位置は多様に変化することがわかります。

「浴槽用浮き輪を装着した6ヶ月児(4枚)」イメージ

3.4.2 浮上実験
インタネットなどで数種類の浮き輪を手に入れ、ダミー人形(6か月児相当、自動車衝突などの実験に使われるもの)を使って浴槽に浮かべる実験を行いました。浮かべるとゆらゆらして結構安定感はあります。少しくらい傾けてもきちんと戻り、復元力が働くことはわかります。次に子どもが前のめりに乗り出すことを想定してダミー人形を浮き輪の前方へずらせてみると、ある角度で傾いた状態で安定します。さらに前方へずらすと傾いた状態から手を放すと突然動きだし、あっという間に転覆してしまいました。想定どおりある限界角度(およそ30度)を超えると復元力が失われて転覆することが観察できました。なお、転覆動作の最後にはパンツ型の穴にダミーの足が入ったまま「逆さ宙吊り」状態になって止まること、またこの状態になるまでにわずか2秒程度しかかかりませんでした。この様子はビデオで撮影し、分解写真として観察しました。

「ダミーによる浮上実験(6枚)」イメージ

別のタイプの浮き輪でもほとんど同じような転覆→急速転回→逆さ宙吊りの過程を見ることができました。
3.5 解析
自然転覆が始まる限界角度とはどんなものか、それを決める浮心の移動とはどのようなものか、についていろいろな手法で解析を行いました。
a) ある体重の子どもがある形の浮き輪に乗って浮かんでいる状態を、直方体のモデルで表してその傾き角度と浮心移動の関係を幾何学的に計算で求める方法。
b) ダミー人形を浮き輪に乗せた状態を、実験で使用したものの測定から図形に表し、ある角度に傾けた状態を画像解析法により水平にスライスして薄いスライス片を作り、その重心を2次元画像解析で求め、最後にそのスライスを重ねて3次元の重心を求める、画像解析法。
c) 浮き輪の形状を立体的に数式化し、積分計算式により、任意の傾き角度について重心・浮心の位置を計算する方法。

「重心位置と浮力イラスト」img203.jpg

 a)の方法では2次元の幾何学的モデルから単純な計算ができる特徴があります。
  一部を下記に紹介します。(論文からの抜粋なので図番はもとのままになっています。)
・子どもモデル
 実験に使用したダミー(6ヶ月児)と別入手データから2歳児モデルを想定しました。子どもの水面から上の部分の体重(有効体重)が重要であり計算に入れました。
・浮き輪/子どもの静的安定関係のモデル化
  下図の座標位置を基に浮心位置を求め体重の移動に伴う準静的安定式を作成しました。
 * 安定状態では子どもの重心位置と浮き輪の浮心位置が同一鉛直線上に有る
 * 子どもの体重と浮力の大きさは等しい

「計算モデルの座標位置」イメージ

・浮き輪での子どもの重心移動と浮き輪角度
 浮き輪に乗った子供が動いて重心位置が移動した時の浮き輪回転角度を模式的に示します。
(本図は子供の体重=浮き輪の全浮力の1/2(R=1/2)であるケースです)
 Xは重心又は浮心の移動距離(転覆限界までは重心移動と浮心移動は同じ)

「図H-3 重心位置移動と回転角」img205.gif

上記のように、浮上体の傾きと共に浮心位置は移動するものの、その移動距離はある限界に達して逆転します。重心の水平距離はなお移動を続ける結果、重心は浮心より遠くに移動するため復元力が消失して自然に転覆することがわかります。この解析では直方体の形を変えることで限界角度を変えることができることもわかりました。より安全な設計を検討する場合に役に立ちます。

b)の方法では数式計算ではなく、図形処理ソフトを活用して近似的に浮心の移動現象を求めるものです。ダミーと浮き輪を詳細に図形化した上で、ダミーの重量で浮き輪がある量沈んだ状態である角度だけ傾いているとし、その時浮き輪が水中にある部分を図形上で浮き輪に平行な面でスライスします。各スライス毎の重心を2次元図形で求め、それらのスライスを重ね合わせると3次元の重心(浮心)位置が求められます。角度を変えてその都度同じ計算を繰り返すことで浮心の移動現象を求めることができます。
 詳細説明は省略しますが、代表的な図を下記に表示します。
この方法でも傾きに伴う浮心の移動をフォローして移動限界があることがわかります。

「図T-8 ドーナッツ型浮き輪とダミーの転覆限界」img207.jpg
「図T-4 傾き10°時の浮心」img208.jpg
「図T-7 浮心中心距離と浮き輪の傾き」img209.jpg
付図T-7 浮心中心距離と浮き輪の傾き

c)の方法では、浮き輪の形状を3次元のまま積分法により解析します。
複雑な計算になりますが、式で使用したパラメータは自由に変化させることができるので、様々な形の浮き輪について、また大きさの異なる子ども、その位置関係など、いろいろなケースについて解析ができる特徴があります。今後の安全設計において応用範囲が広いと思われます。
*環状浮き輪の例
「ドーナッツ型浮き輪の例」img230.jpg
① 傾いた浮き輪の浮力
傾きδ、水没深さh0の浮き輪の浮力を求める。浮き輪の断面は中心から円周方向の角度により水没面積が異なるので、微小角ごとに水中の体積を求め総和を求める。
δ: 浮き輪の傾き
h0:浮き輪中心での水没深さ
La:浮き輪底面が水面と交差する線と浮き輪中心との距離

【浮き輪の中心軸を基準】
x、R、φ:
【浮き輪の断面を基準】
θ
【水面を基準】
h、w

「計算1」img250.jpg

弓形の面積Sは、次式であるから φの関数で表わせる
「計算1」img251.gif

・・・・(以下省略)

「中心浮心間距離と浮き輪の傾き」img231.jpg

 この図は前のa)、b)のケースと比べて縦軸と横軸の関係位置が逆になっていますが、浮き輪の傾きによる浮心移動には限界があることは同じようにわかります。

3.6 結論
以上実験による現象の観察とそれをふまえた解析結果により、子どもが浮き輪に乗って浮かんでいる浮上体について、安定である浮き輪の傾きにはある限界があり、その限界角度を超えた状態では安定は維持できず、自然に転覆が始まることがわかります。転覆限界を超えると浮心移動は急速に逆方向に向かい転覆を加速します。計算では90度を超えてからの解析はしてありませんが、ここからは浮き輪が反転して更に浮心は逆方向に向かいます。浴槽用浮き輪のパンツ型部分に子どもの足が挟まっている状態では逆さ宙吊り状態に向かって急速に回転してしまうことになります。
子どもが浮き輪の上でどういう動きをするかは詳細見ておりませんが、水上で楽しく遊ぶ子どもの行動から想像すると、簡単に限界角度を超えてしまうことは容易に推定できます。浮き輪が十分大きい場合や子どもの重心が相当に低い場合は限界角度が大きくなって、安定の方向ですが、それでも転覆限界は存在します。浴槽で利用する場合は浮き輪の大きさは限定され、また子どもが浮き輪に乗っている状態では重心位置を下げるにも限界があるのでこの種の浮き輪は本質的に「転覆→急速回転→逆さ宙吊り」の危険源となることがわかります。
4.今後の課題
2006年の事故の後「絶対目を離さないで!」キャンペーンなどが行なわれ、ある程度その危険性については市民の理解が進んでいると思われますが、現実には今でも浮き輪はネット販売などで購入できます。安全な玩具を示すSTマークも付いています。「浴槽では使わないで下さい」との表示はありますが、実際どのように危険なのかは明確にはわからず、実際には浴槽でも使えるので便利さのため今でも使われているのではないかと思われます。
安全の問題はリスクアセスメントからスタートして危険源を十分にたしかめた上で、第一に「本質安全設計」をすること、それが難しい場合は第二として「危険に至らない防護策」を講じること、それでも困難な場合に第三の方法として「危険表示」をする、この順序を間違えてはいけない、という原則があります(ISO/IEC Guide 51など)。
浴槽用浮き輪の問題ではこの第一の部分の検討が不明確なままほとんど第三の方法に頼っていると思われます。浴槽用浮き輪に限らず、水の上で子どもが遊ぶ道具など、「浮上体の安全」についての考え方はまだ明らかになっていないと思われます。わたしたちはこの第一の「本質安全設計」をこれからめざしていきたいと思います。

本研究により、浮き輪と子どもの系において本質的危険源の考え方を明らかにすることができましたので、この成果を設計、製造、流通関係者、使用者、管理者、行政関係者などに広く伝えることにより、本質安全方策を優先に危険防止につなげて行くよう様々な場で提言していきたいと思います。その上で安全規格の策定につながる提案をしていきたいと思います。海外では浮き輪も含めて子どもの安全については厳しい規格・規制があります。それらについても研究していきたいと思います。